高岳寺

高岳寺について

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沿 革

高岳寺  山号は大鏡山だいきょうざんと称します。もともとは江戸時代に静岡に建立された寺でしたが、昭和になって北九州に移され、現在に至りました。
 静岡における開山は、臨済下第22世・方広寺第2世の悦翁建誾和尚えつおうけんぎんおしょう、 東隠院派讃厳和尚とういんはさんげんおしょうで、後西院帝の万治2年已亥(1659)に、現在の静岡県浜松市天竜区熊に開かれました。
 北九州における創建は、元方広寺管長の足利紫山老師(臨済宗十三派合同初代臨済宗管長)の要請によって行われ、昭和14年(1939)、寺宇一棟が建立され、寺号を当時の天竜市熊村より若松市山手通りに移して、現在の高岳寺となりました。
 寺の境内地は、代議士・石崎敏行氏が寄進され、建築は石崎氏以外に、麻生太吉・玉井金五郎(作家火野葦平氏の厳父)・井上安五郎(当時の市長)の各氏や、総代・世話人など有志の方々の喜捨によって行われたのです。
 寺の寺号を北九州に移転した後、紫山老師は、至道雲外和尚(1884~1952)に命じて一年間方広寺の禅堂で修行を積ませ、高岳寺第一世として入山しました。
 当時の北九州は、筑豊の炭鉱の積み出し港として活気に溢れており、一大新興地でした。特に若松は、火野葦平の小説「花と龍」にみられるように、任の町で人心の気性も荒かったのです。紫山老師には、北九州にも数多くの信者がおり、その荒々しい人々の心を鎮めるために、信者たちが寺の建立を老師に懇願し、実現したと言われています。

高岳寺仏像

聖観世音菩薩(本尊)   平安時代の木彫の立像(高さ約75㎝)
聖観世音菩薩(本尊)
 当寺本尊として本堂正面に安置。明治天皇の皇后であった昭憲皇太后(一条 美子いちじょうはるこ1849~1914)を出した、一条家(華族の五摂家)の頭首で、公爵であった一条 実孝いちじょうさねたか(1880~1959)の寄進です。功徳利益の広大無辺な大慈悲心を持つ菩薩で、一切衆生の諸々の苦悩を救うために三十三の身に自由自在に姿を変えて現れるとされます。
鎮守半僧坊大権現
 開山無文元選禅師が、元から帰国の折り海上で大風に遭ったが、ある神があらわれ禅師を大風から護り帰国することができました。そして、禅師が遷化すると同時に、再びその神が現れ、「末ながく此の山を守り、信心の者を救済せん」と言って姿を消したといわれています。大正7年に、時の方広寺菅長足利紫山老師及び有志の方々の力により、奥山半僧坊大権現の別院として建立され、現在は本尊の脇に祭られています。真心を以て祈念するものには、必ず御利益が与えられ、災厄が消滅し、海上安全・火災消除・家門繁栄・諸願満足の霊験あらたかな神として多くの人々から信仰されています。
その他
 観世音菩薩座像(鎌倉時代)阿弥陀如来あみだにょらい(江戸時代)・不動明王(大正時代玉井まん、火野葦平氏の慈母寄贈)千手観世音菩薩製銅座像せんじゅかんぜおんぼさつせいどうざぞう(明時代)・弘法大師座像(昭和時代)・開山紫山老大師座像(昭和30年本山より寄贈)などがあります。

高岳寺世代

創建開山 足利紫山
 安政六年(1859)~昭和34年(1959)。室号は閒雲室かんうんしつ。愛知県一宮市出身。8歳の時、静岡県興津の清見寺、加藤蓉嶺老師につき得度。岐阜県伊深の正眼僧堂に掛搭し、中島泰龍老師に参禅。京都相国寺の荻野独園老師に参禅して嗣法しました。33才で大分萬寿寺に入寺し、僧堂開単。68才で退任。静岡県清水の鉄舟寺に2年間住し、僧堂を開きました。昭和2年8月、静岡県引佐郡奥山の方広寺派管長に就任。昭和14年、若松市山手通(現・北九州市若松区白山)に高岳寺を建立し創建開山となりました。昭和16年、臨済宗十三派合同、初代臨済宗管長に就任しました。昭和21年、管長を退任し萬寿寺に帰山するが、昭和27年、再度管長に就任しました。昭和29年、再び管長を退任するが3度請せられ、昭和34年12月30日、方広寺で遷化したのです。社会福祉事業にも尽力し、大分に育児院、奥山に老人ホームを建設しました。世寿百1才せじゅひゃくいっさい
第1世 至道雲外
第2世 夢翁孝信
第3世 正道宗貞

高岳寺建造物

本 堂
平成7年1月 竣工
平成22年10月 内陣改修
山 門
平成7年11月 竣工
大鏡閣
2階霊屋。明星観世音菩薩安置。
1階控え室。昭和54年12月竣工。
平成12年改修。
地蔵堂
昭和54年8月に建立。
平成20年9月改修。
高岳塔
歴代和尚の墓。平成18年建立。
十三重塔
平成26年4月8日建立。
仏足石 仏足石(平成18年に建立)

本 山

 方広寺(静岡県浜松市北区引佐町奥山中腹)、山号は深奥山。方広寺派の大本山。
本山開山は、無文元選禅師(1323~1390)勅諡ちょくしは聖鑑国師・円明大師。後醍醐天皇の皇子で母は昭慶門院とされています。
無文禅師は、18才にして、京都建仁寺で雪村友梅禅師に師事し、21才の時に元に渡り、先に入元していた古梅正友禅師に参じて嗣法されました。その後、更に中国で諸師に歴参して八年後に帰国し、美濃、三河、甲斐、駿河地方に化を布いたのです。その無文禅師の参禅の弟子で遠州の地頭井伊家の分家である奥山六郎次郎朝藤是栄居士が、後醍醐天皇追善と、師恩に報いるために、領有する奥山の領地を寄進して方広寺を建立して開基となり、無文禅師を招いて開山しました。無文禅師は、元中七年(1390)に68才で示寂しました。

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